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【 アニエス・ベー (Agnes B.) 】 |
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[1942〜.フランス;パリ]ヴェルサイユ美術学校卒業後、『エル』誌の編集に携わる。その後、スティリストとして<ドロテビス><ピエール・ダルピー>などを経て、'76年レ・アールに<アニエス・ベー>ブティックをオープン。現在ではメンズ、キッズ・ラインも展開し、都会的な美しさをもったシンプルなカジュアル・スタイルで高い人気を得ている。 |
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【 アン・ドムルメステール (Ann Demelemeester) 】 |
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〔1961〜.ベルギー;コートヤック〕'81年アントワープ王立芸術学院卒業。フリーランスとしての活動後、'87年ロンドンでコレクションを発表し、'91年からはパリ・コレクションに参加。生活観に根ざした極めて新しい作風が特徴で、'90年代を代表するデザイナーの一人として注目される。 |
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【 イヴ・サンローラン (Yves Saint-Laurent) 】 |
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〔1936〜.アルジェリア;オラン〕17歳の時、IWS主催のデザインコンクールでカクテル・ドレスカクテル・ドレスを発表し、最優秀賞を受賞する。その才能認められ、翌年〈クリスチャン・ディオール〉メゾンに迎えられる。'57年にディオールが急逝すると、21歳の若さで後継者としてデザイナーに就任。翌年、メゾン継承後の初コレクションで「トラペーズ・ライン」を発表。若々しい魅力で高い評価を得たが、後に発表された膝丈のホッブル・スカートや「ビート・ルック」と称されたストリート感覚のスタイルが〈ディオール〉のエレガンスにそぐわないものとして不評を浴びた。'60年アルジェリア戦争に徴兵され、兵役を終えてパリに戻ると、既に〈ディオール〉にはマルク・ボアンがデザイナーとして就任しており、彼のポストは残されていなかった。'62年ピエール・ベルジェをビジネス・パートナーにオート・クチュール・メゾン〈イヴ・サンローラン〉を開設し、初のコレクションを発表。バレンシアガを意識したニュー・モードで好評を博した。'66年にはプレタ・ポルテ部門も開設。'60年代の大腿部までのロング・ブーツや「モンドリアン・ルック」、「サファリ・ルック」、'70年代の「コサック・ルック」や「フォークロア・ルック」など、斬新なスタイルを次々と発表。また、この頃からオート・クチュールにもますます磨きがかかり、色彩をあやつる艶やかなテクニックで“モード界の帝王”とよばれるようになった。'85年にレジヨン・ドヌール勲章を受勲、'93年にはデ・ドール賞を受賞するなど、その才能は全く衰えを見せず、現代のモード界をリードし続けている。 |
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【 ヴァレンティノ・ガラヴァーニ (Valentino Garavani) 】 |
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〔1933〜.イタリア;ヴォゲラ〕パリ・クチュール組合学校卒業。ジャン・デッセ、ギ・ラロッシュのもとで修行を積み、'59年に独立。ローマにオート・クチュール・メゾンを構えて、'60年には初のコレクションを発表している。'62に発表された「白だけの服」と名付けられた“白一色”のコレクションは意表をつく演出で大成功をおさめ、〈ヴァレンティノ〉の名を国際的に知らしめるものとなった。'67年ファッション・オスカー賞を受賞。'69年にプレタ・ポルテ、'73年にはインテリアや小物類、'85年からは紳士服部門をスタート。'89年よりコレクションの場をパリに移している。この時に採用された勝利の象徴ともいえる「V」マークは、いまではブランドの代名詞となり、世界的に知られるものとなった。良質の素材からつくり出される洗練されたエレガンスは、シンプルな中にも優雅や女性らしさを兼ね備え、多くの女性達の支持を受けている。'85年グランデ・ウフィッチャーレ勲章受賞。 |
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【 ヴィヴィアン・ウエストウッド (Vivienne Westwood) 】 |
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〔1941〜.イギリス;ダービーシャー州〕教職の道を志すが、のちに「セックス・ピストルズ」をプロデュースするマルコム・マクラーレンとの出会いにより、彼女の人生は大きく転換する。'71年キングス・ロードにマルコムと共同でブティックを開設。ロック・ミュージシャンを中心に顧客が広がり、ロンドンの若者文化を象徴する店となっていく。'70年代半ばのパンク・ロックの出現とともにパンク・ファッションを〈セックス〉〈ワールズ・エンド〉などの過激なネーミングのブランドで次々と展開し、ロンドンのパンク・シーンをリードしていった。'81年ロンドンでの初コレクションで発表されたパイレーツ・ルックは大きな反響をよび、“アバンギャルドの女王”と称されるようになった。その後もボロ・ルックなどを発表し、川久保玲、山本耀司らと並ぶアンチ・モードの旗手として活躍。過激さの中にも抑えた色彩や素材など伝統的なブリティッシュ感覚の多分に盛り込まれ、過激なファンを多くもっている。 |
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【 エマニュエル・カーン (Emmanuelle Khanh) 】 |
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[1937〜. フランス;パリ]「バレンシアガ」のモデルをしていたが自分でデザイン画を描くうちに「エル」誌に認められ、デザイナーに転身する。「ドロテビス」、「キャシャレル」等でデザイナーそして活躍したあと、'64年、最初のコレクションを発表。'60年代のニュー・プレタ時代の先駆けとして、アップ・トゥ・デイト(今日的)なカジュアル・ルックを数多く発表した。その存在はしばしばイギリスのマリー・クワントに対比される。 |
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【 カール・ラガーフェルド (Karl Lagerfeld) 】 |
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〔1938〜.ドイツ;ハンブルグ〕ドイツの裕福な家庭に生まれ、デザインガを描くことが好きだった彼は、14歳の時に両親を説得して勉強のためにパリに渡り、16歳でIWS主催デザインコンクールのコート部門で優勝する。その後〈ピエール・バルマン〉〈ジャン・パトゥ〉を経て、'63年に独立。フリーランスとして活動を開始し、〈クロエ〉〈フェンディ〉〈シャルル・ジョルダン〉などと契約、プレタ・ポルテ界の寵児として注目を集めた。'83年に〈シャネル〉のデザイナーに就任。オート・クチュール、プレタ・ポルテの両部門を手がけ、'86年にはデ・ドール賞を受賞など成功をおさめ、メゾンと共に自身の名声を高めていった。'84年〈カール・ラガーフェルド〉ブランドをスタート。〈シャネル〉とは異なった趣で、洗練された大人のセンスをもったラインを打ち出している。'92年には、一時離れていた〈クロエ〉のデザイナーに返り咲き、〈フェンディ〉〈シャネル〉と自身のメゾンを含4つのメゾンのデザイナーを兼任。その才能を遺憾なく発揮している。 |
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【 カルバン・クライン (Calvin Klein) 】 |
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〔1943〜.アメリカ;ニューヨーク〕ファッション工科大学卒業。コートとスーツのメーカーを経て、'68年友人と共にカルバン・クライン社を設立。アメリカン・トラディショナルをベースにしたシンプルで上質なカジュアル・ウエアで幅広い支持を得ている。3年間連続のコティ賞受賞や「ファッションの殿堂」入りなどで、米国を代表するデザイナーとしての地位を確立。'93年には米国ファッションデザイナー協会のメンズとレディス部門の年間最優秀デザイナー賞を二冠同時受賞している。 |
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【 キャサリン・ハムネット (Katharine Hamnett) 】 |
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[1949〜.イギリス;ケント州グレーブゼント]チェルトンナム女子短大卒業後、セントマーチンス芸術学校でデザインの基礎を学ぶ。フリーのデザイナーとして活躍した後、'75年キャサリン・ハムネット社を設立。洗いざらした感覚のラフな素材を駆使した革新的なデザインで有名になる。「ファッションはゲーム。一部のファッションエリートのための服はつくらない」と公言する彼女の服には、政治や社会へのブラック・ジョークなど、独特のユーモア・センスが満ちている。 |
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【 サルヴァトーレ・フェラガモ (Salvatore Ferragamo) 】 |
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〔1898〜1960.イタリア;ポニート〕15人兄弟のうちの一人であったフェラガモは、幼い頃から靴屋で働く。16歳の時アメリカに渡り、ハリウッドを目指す。マレーネ・デートリッヒ、グロリア・スワンソン、キャサリン・ヘップバーン、イングリット・バーグマンら、時代をときめく映画スターたちを顧客に、靴職人としての名声を高めていく。'27年、イタリアに戻り、フィレンツェで大規模な手づくり生産の靴屋を開業。氏が生み出した代表的なものに、甲部を透明なナイロン糸でつくった『見えない靴』、ウエッジ・ソール、プラットフォーム・ソールなどがある。また、足の構造についても研鑽(けんさん)を積み、流行だけにとらわれず、足にフィットした履き心地の良い靴を信条とした。現在、ブランドは妻とその子供たちに受け継がれ、フェラガモの哲学を守った地道な営業で成功している。350種のデザイン特許をもつ。 |
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【 ザンドラ・ローズ (Zandra Rhodes) 】 |
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[1940〜. イギリス;ケント州チャタム]ミッドウェイ・カレッジ・オブ・アートを卒業後、ロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アートに入学。卒業後、当時ロンドンのカーナビー・ストリートで大盛況であった「モッズ・ルック」のためのプリントをデザインするなど、主にテキスタイル分野で活躍。のち、ファッション・デザインも含めて、'68年に自分のブランドを設立。'60年代に登場した、もっとも独創的でアバンギャルドなデザイナーとして知られる。そのユニークなアイデアで表現されるイブニング・ドレスで社交界にもファンが多い。 |
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【 シャネル (Chanel) 】 |
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[1883〜1971.フランス;ソミュール]12歳の時に母を亡くし、姉妹と共に孤児院で育つ。18歳になると仕立て屋で働きはじめるが、歌手に憧れてミュージック・ホールの歌い手となる。愛称「ココ」は当時のレパートリー“キ・カ・ヴィ・ココ[Qui qua vu Coco]”“コ・コ・リ・コ[Ko-Ko-Ri-Ko]”に由来している。その後、当時としては画期的であったココがかぶるシンプルな帽子が評判になり、'10年、パリのカルボン通りに小さな帽子のブテッィクを開く。のち、高級リゾート地のビアリッツ、ドーヴィル、そしてパリにブティックを構え、リゾート用の婦人服を中心に<シャネル>のブランドで販売しはじめる。彼女は紳士用のデザインやジャージーなどのラフな素材を取り入れて、これまでの婦人服とは全く違った新しい、マスキュリン感覚のエレガンスを次々と打ち出しはじめた。また、’21年にかの有名な香水「シャネルNO.5」が売り出され、香水部門の成功と共に、ビジネスとしても大きく飛躍。’20〜’30年代のパリ・モードをリードする大クチュリエールに変貌を遂げた。シャネルは、そのスタイルが完全に自分のものになるまでは決して売りには出さなかったといわれ、自らメゾンの象徴的役割を果たした。またコクトーやストラヴィンスキー、ピカソなど、芸術家たちとの親交も深く、パリの前衛芸術家グループを庇護したことでも知られる。ブレードで縁取りされた衿なしのツイード・スーツ「シャネル・スーツ」をはじめ、金ボタン、パールのロング・ネックレス、ゴージャスなコスチューム・ジュエリー(模造貴石などの宝石)、つま先で切り替えたベージュ×黒の底寸パンプス(シャネル・パンプス)、鎖と革のストラップで知られるキルティング・バック(シャネル・バッグ)など、100種以上にのぼるシャネル・スタイルは現在もなお受け継がれている。シャネルは1度、第2次世界大戦後、メゾンを閉じて引退したが、’54年に店を再開させた。彼女の亡き後、メゾンのデザインチームによってブランドは引き継がれたが、’83年ドイツ人デザイナー、カール・ラガーフェルドの起用によってシャネルメゾンはまた、新たな活気をみなぎらせている。 |
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【 シャンタル・トマス (Chantal Thomass) 】 |
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[1947〜.フランス;パリ]少女期よりファッションに興味を持ち、早くから自分自身の服をデザインして着る早熟なファッションセンスを身に付けていた。'67年、彼女の作品を<ドロテビス>が販売。同年、夫と共にブティック<テ・レ・パンティーヌ>を開設。ヤングに向けた斬新なファッションで話題をよぶ。'75年、ブランド名を<シャンタル・トマス>に変更。粋な遊び心を加えた、モダンな女らしさを表現するデザイナーとして知られている。自由で新しい発想を持ち込んだランジェリーやストッキングなど、インナー・ウェア部門でも活躍。 |
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【 ジバンシー (Hubert de Givenchy) 】 |
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〔1927〜.フランス;ボーヴェ〕世界的なオート・クチュール・デザイナーとして知られる。幼くして父と死別。ゴブラン織業界の指導的立場にあり、タペストリー工場を営んでいた祖父のもとで育つ。法律家になるべく教育を受けたが、バレンシアガに憧れてパリに出、17歳の時、〈ジャック・ファット〉メゾンに入る。その後、〈ロベール・ピゲ〉、〈ルシアン・ルロン〉などを経て、〈スキャパレリ〉へ。その才能を認められ、スキャパレリの右腕としてモデリストに登録され、ヴァンドーム広場を認められ、スキャパレリの右腕としてモデリストに登用され、ヴァンドーム広場のブティックを全面的に任される。4年後の'52年、独立しコレクションを開催、ワイシャツ地でつくられたドレスを発表。決して豪華と呼べるものではなかったが、その新鮮なエレガンス感覚は、人々に大きな衝撃をあたえた。24歳にして“モードの神童”とよばれた彼は、'53年には果物や野菜などのプリント・ドレスや'55年のシャツ・ドレス、、そして有名なサック・ドレス等を次々と打ち出し、シンプルでスポーティーな感覚の洗練されたエレガンスを生み出していった。また、オードリー・ヘップバーンのデザイナーとしても知られており、多くの映画衣装も手がけている。'68年、プレタ・ポルテの〈ジバンシー・ヌーベル・ブティック〉を開設。インテリア、香水、小物類など、多くの部門をもち、ビジネス面でも成功している。'78年、デ・ドール賞を受賞。 |
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【 ジャンポール・ゴルチエ (Jean-paul Gaultier) 】 |
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〔1952〜.フランス;パリ〕若くしてデザイナーを志し、自分のスケッチを一流のデザイナーたちに送り続ける。18歳の時、〈ピエール・カルダン〉に採用され、1年間アシスタントとして勤めた後、〈ジャン・パトゥ〉等を経て、フリーランスに。'76年、〈ジャンポール・ゴルチエ〉の名で、コレクションを発表。'78年には(株)オンワード樫山と提携して、本格的な活動を開始する。アバンギャルドとクラシシズムが融合した独特の作風は、パリ・コレクションでにおいても多くのジャーナリストたちの人気をさらい、'80年代を代表するデザイナーとして、一躍脚光を浴びる。'87年にオスカー賞を受賞。人を楽しませて止まない斬新なアイデアの中には、着る側が共に体験できる純粋な好奇心を感じさせる。最近は服作りの他に音楽や映像の分野でも、マルチなタレント性を発揮している。 |
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【 ジョルジオ・アルマーニ (Giorgio Armani) 】 |
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〔0935〜.イタリア;ピアチェンツァ〕ミラノ大学で医学を専攻していたが、イタリアの百貨店リナシェンテで紳士服を手がけたことからファッション界へ。〈セルッティ〉の紳士服デザイナーを経て、'75年に自社を設立。紳士服の素材やディテールを婦人服の中に取り入れながらも、女らしいシルエットやソフトな感覚をつくり出すテクニックは抜群で、「ジャケットの王様」の異名をとる。'79年、ニューマン・マーカス賞受賞。ロンドン、ニューヨーク、パリ他、世界各国でその評価をますます高めている。日本でもその人気は高く、〈エンポリオ・アルマーニ〉と共に、そのブランド名はよく知られている。 |
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【 ジョン・ガリアーノ (John Galliano) 】 |
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〔1960〜.ジブラルタル〕6歳の時に両親と共に渡英。義務教育終了後、セント・マーチンス芸術学校に入学、テキスタルを学ぶ。のちファッション科に移籍。卒業制作のコレクション「アフガニスタンとヨーロッパの理想」がロンドンの有名なブッティック“ブラウンズ”と約5年間の契約を結ぶ。デビュー当初は、ジャケットをボトムに使った「さかさまの服」など、その過激なアバンギャルドぶりで話題をよんだ。最近は、バイアス・カットを使ったエレガントなラインも多く発表されている。 |
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【 ジル・サンダー (Jil Sander) 】 |
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[1943〜.ドイツ;ヴェセルビュレン]クレフェルド・スクール・オブ・テキスタイル卒業後、テキスタイル・エンジニアの資格を取得。『マッコールズ』などの女性誌の編集を経て、ハンブルクにブティックを開設。'73年に初の<ジル・サンダー>コレクションを発表。'85年よりミラノへ活動の場を移している。 |
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【 ソニア・リキエル (Sonia Rykiel) 】 |
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〔1930〜.フランス;パリ〕「ニットの女王」の異名をとる。'62年、当時妊娠中であった自分用のマタニティ・ドレスをつくったことから、ニットを中心に、“自分の着たい服”を夫の店<ローラ>で売るようになる。 '68年に最初のブティックをパリのグルネル通りにオープン。その後、「デ・モード(脱・流行)−デザイナーが創り出したモードをそのまま受け入れるのではなく、自分の中で消化し、個性を加えて着こなすべきである」というソニアのファッション哲学は、時代に大きな波紋を投げかけた。 衣服から季節感や年齢を取り除き、身体を解放させるリラックスしたモードは、幅広い年齢層にわたって多くのファンをもち、広く支持されている。 '83年、フランス文化省より芸術文化勲章を受勲。'84より子供服も手がける。 |
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【 田山淳朗 (たやまあつろう) 】 |
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[1955〜,熊本県]74年(株)ワイズ入社。75年ハイファッション・ピエール・カルダン賞受賞。78年渡仏。帰国後、82年(株)エム・ティーカンパニー設立。ブランドをスタート。「自分の望んでいるものを問うことから」という、内面の価値観と対峙しながらの創作姿勢は、衣服を通して生活者に新しい提案をあたえていけるタイプのデザイナーでもある。 |
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【 ダーク・ビッケンバーグ (Dirk Bikkembergs) 】 |
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アントワープ王立学院卒業。84年より2年間ジャンポールゴルチエに師事し、86年ロンドン・コレクションで靴のデザインを発表。88年よりパリ・メンズ・コレクションに参加。ドルチェ&ガッバーナ、ドリス・ヴァン・ノッテンと共にヨーロッパ3Dの異名を持つ。 |
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【 ダナ・キャラン (Donna Karan) 】 |
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[1948〜.アメリカ;ニューヨーク]モデル出身の母とファッション・ビジネスに携わる父との間に育つ。パーソンズ・デザイン学校卒業後、アン・クライン社に入社。アン・クラインの没後、ルイス・デルオリオと共にブランドを継承。'85年の独立までの間にコティ賞を3度受賞している。独立後は<ダナ・キャラン>ブランドを設立。シンプルで洗練された大人の女性のための服づくりで多くの人からの高い支持を受けている。'89年にはをセカンド・ラインとしてスタートしている。 |
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【 津森千里 (つもりちさと) 】 |
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文化服装学院ファッションデザイン科卒業後、(株)一珠を経て、(株)イッセイ・ミヤケに入社。<イッセイ・スポーツ>から83年でコレクションを発表。90年よりを後任に譲り、<ツモリチサト>コレクションを発表している。ハンドメイドのそぼくなあたたかさとユーモアを所々効かせた“明るく元気”なキャラクターで、幅広い人気をさらっている。 |
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【 ドリス・ヴァン・ノッテン (Dries Van Noten) 】 |
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〔1958〜.ベルギー;アントワープ〕'80年アントワープ王立芸術学院卒業。フリーランスを経て'85年にショップをオープンし、翌年ロンドンで初めてコレクションを発表する。'91年、パリ・メンズ・コレクションに初参加。'93年からはパリ・コレクションでレディス・ウエアも発表し、その作品は、国際的に高い評価を得ている。 |
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【 ドルチェ・アンド・ガッバーナ (Dolce & Gabbana) 】 |
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ミラノのデザイナーズ・ブランド。デザイナーはドメニコ・ドルチェとステファノ・ガッバーナの二人。'80年ミラノのファッション・デザイナーのスタジオで出会い、'82年に独立し、活動をはじめる。'85年<ドルチェ&ガッバーナ>の名でコレクションを発表。'89年よりメンズも手がけ、今後の活動が注目される。 |
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【 永澤陽一 (ながさわよういち) 】 |
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〔1957〜.京都〕名古屋モード学園卒業後、渡仏。熊谷登喜夫のアシスタント・デザイナーとして入社し、'87年<トキオ・クマガイ>全ブランドのデザイナーとなる。'89年秋冬より東京コレクションに参加。'91年に帰国後、(株)スティルを設立して独立。オリジナルブランドに<ヨウイチ・ナガサワ><ノーコンセプト・バット・グッドセンス>がある。また、映画のコスチュームデザインなどを手がけるかたわら、'92年より無印良品の衣料品デザインに参画。'92年毎日ファッション大賞新人賞受賞。 |
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【 バレンシアガ (Cristobal Balenciaga) 】 |
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〔1895〜1972.スペイン;バスク地方〕お針子をしていた母の影響で幼い頃から仕立てに興味をもち、独学で裁断と縫製を学ぶ。14歳の時、カサ・トレス侯爵家で見た婦人の衣装を複製。それに感激した婦人が、のちの彼のパトロニエとして資金面を援助。マドリードのテーラーを経て、'15年にサン・セバスチャン、続いてマドリード、バルセロナにメゾンを開設するが、スペインの内乱により全てを失う。'37年パリに移りメゾンを再開。そのシンプルで完璧なシルエットは多くの女性を魅了した。'40年代のディオールの代表作品「ニュー・ルック」の前身ともいえるスタイルを'38年に発表。その後もペンシル型のスリムなパネル・スカートや'50年代にはウエスト・ラインをもたないストレートな「バレル・ルック」、シンプリシティを追求した「サック・ドレス」などを次々と発表。時流や他のクチュリエに迎合することなく、芸術性の高い独自のスタイルを生み出していった。また、その特殊な技術やデザインが外部にもれる事を忌み嫌い、デッサンは行わずに、直接マヌカンに生地をまとわせて裁断するという技法で服づくりを行ったといわれている。メゾンからはジバンシー、クレージュ、ウンガロ等が輩出されたが、プレタ・ポルテ時代の到来によりメゾンの改革を余儀なくされ、'68年「プレタに乗り出すには、あまりにもクチュール>クチュールを知りすぎた」という名言を残してメゾンを閉鎖、モード界から引退した。その構築的な美とシンプリティは後世に語り継がれ、「バレンシアガのモードに影響を受けないデザイナーはいない」といわれている。その後、メゾンは再開され、ミッシェル・ゴマを経て'92年からジョセフュス・メルキオール・ティミスターがデザイナーをつとめている。 |
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【 フランコ・モスキーノ (Franco Moschino) 】 |
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[1950〜1994.イタリア;ミラノ]14歳の時からミラノの高級仕立て屋で修行を重ね、プレラ・アカデミー・オブ・アートを卒業後、ジャンニ・ヴェルサーチェのもとでスケッチャーをつとめる。その後、既製服メーカーのデザイナーを経て、'83年に独立。ミラノで<モスキーノ>コレクションをスタートする。“やんちゃ坊主”とよばれるほど自由奔放な作風が特徴で、既成のファッションを皮肉ったユーモアあふれる作品づくりで高い人気を得ていたが、'95年春夏コレクションを前に急遽。ブランドは20数名のデザインチームにより継続された。 |
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【 ポール・スミス (Paul Smith) 】 |
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〔1946〜.イギリス;ノッチンガム〕24歳の時に自分の店をもち、自らデザインも手がける。伝統的なブリティッシュ・スタイルとロンドンのストリート感覚を融合させた、モダンなメンズ・ファッションを展開。特に、上質の素材を用いたシンプルなスーツと、カラフルなプリント・シャツはその代表的なものといえる。日本でも人気の高いデザイナーの一人。 |
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【 マーク・ジェイコブス (Marc Jacobs) 】 |
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〔1963〜.アメリカ;ニューヨーク〕パーソンズ・デザイン学校卒業。'87年<マーク・ジェイコブス>ブランドをスタート。同年、最年少でペリー・エリス賞を受賞し、翌'88年から<ペリー・エリス>のチーフ・デザイナーに就任。'93年に独立し、自社ブランドでニューヨーク・コレクションに参加。アメリカ的な若々しい感性で幅広く活躍している。 |
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【 マルタン・マルジェラ (Martin Mrgiela) 】 |
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80年アントワープ王立芸術学院卒業後、ミラノで学び、84年よりパリのジャンポールゴルチェのアシスタントとして活動する。88年に独立し、89年春夏パリ・コレクションでデビュー。いわゆるシャビー・ルックの旗手として従来のモード界に新風を巻き起こし、以後グランジ・ファッションの元祖的デザイナーとして地位を確立した。ベルギー出身のアントワープ派デザイナーの中では、別格の存在とされている。 |
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【 山本耀司 (やまもとようじ) 】 |
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慶応義塾大学法学部、文化服装学院デザイン科卒業。文化服装学院在学中に装苑賞、遠藤賞を受賞している。72年(株)ワイズを設立。77年より東京、81年よりパリでそれぞれコレクションを発表。84年(株)ヨウジヤマモトを設立し、88年には(株)ヨウジデザイン研究所を設立。その作品は、常に世界的な高い評価を得て、川久保玲、三宅一生と並び世界のトップデザイナーとして地位を確立した。また、舞台衣装のデザインを手がけるなど芸術分野でも活躍している。 |
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【 ラルフ・ローレン (Ralph Lauren) 】 |
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〔1940〜.アメリカ;ニューヨーク〕ブルックス・ブラザーズのネクタイ売り場を担当していた頃、彼のアイデアではじめた幅広のネクタイがヒット。のち、〈ポロ〉のブランド名で本格的に高級な手づくりネクタイの部門を開設する。'68年にはメンズ・ウエアも手がけ、コレクションを発表。ブリティッシュ・マインドの中にも、より機能性やカジュアル感を持ち込んだ、新しいアメリカン・トラディショナルを打ち出した。'71年からは婦人服も手がけ、伝統的で上質の素材を使ったテーラード・スーツはよく知られている。映画「華麗なるギャツビー」(1973)や「アニーホール」(1977)でのダイアン・キートンの衣装なども手がけ、日本での人気も高い。 |
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【 ロメオ・ジリ (Romeo Gigli) 】 |
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イタリアの大学で建築学を専攻。20代前半は、南北アメリカ、中国、インドを好んで旅行し、各国で宝石や洋服を買うことを趣味としていた。83年、<ロメオ・ジリ>の名でミラノコレクションにデビュー。柔らかい布やドレープ、フォルチュニー・プリーツなどを用いて、女性特有の優美なシルエットを強調した、独自のスタイルを印象付けた。現代モード界を変える期待の星として注目されている。 |
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